カイロプラクターへの道

カイロプラクターへの道 

query_builder2022/07/13

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カイロプラクターへの道

 

その1. 交通事故

 

1986年7月7日七夕の日、私にとって転機になった、大事件が起こったのです。

それは、生死にかかわる交通事故でした。

私は、モトクロス用のオートバイに乗って、大磯の職場から辻堂の自宅に帰る途中のことですした。

湘南の海沿いの134号線で相模川に架かる湘南大橋の少し手前、某デニーズの駐車場から、突然確認せずにでできたワンボックス車にノーブレーキで衝突し、右折待ちの乗用車の下に滑り込んでしまったのです。

大音量の衝突音の後の静けさ…

気絶寸前の全身の激しい痛みの中、意識はあるし、手は動きます。

誰も声もかけてくれず、助けに来てくれない、その異様な静寂の中で、私はできるだけの大声で、「助けてー!」と叫びました。

その途端、たくさんの人が集まって来て、私を車の下から引っ張り出してくれました。

皆んな、私が死んでいると思っていたのです。

 

そして、生まれて初めての救急車に乗って、平塚市民病院に運び込まれました。

 

カイロプラクターへの道

その2 病院に運ばれて

 

バイクに乗っていて、車に衝突し、別の車の下に滑り込んむという大事故に遭ってしまった私です。

 

やっとのことで、車の下から引き摺り出してもらい、救急車に乗せられました。

 

救急隊員に、どこが痛いか聞かれ、

"全身が痛いですが、特に右脚が痛いです!"

即、隊員さんがカッターでブーツを切ってくれました。

その時私の履いていたのは、モトクロス用のブーツで、内側に鉄が入っている物でした。

なんと、その鉄が内側に折れ曲がって、脛にグッサリと刺さっていたのです。

今思えば、鉄が無ければ脚の骨が折れていたのかもしれません。

けれども、酷い出血と痛みで気を失いそうでした。

そして、腰も首も激痛が走っていました。

 

病院に着いて診察を受けたところ、診断結果は、右脛骨にヒビ、重度の腰椎捻挫、重度の頚椎捻挫(むち打ち症)、その他多数の打撲でした。

その晩は痛み止めを飲んでも痛くて眠れませんでした。

 

検査2日目のこと、頚椎に異常があるので、間隔を狭くする手術をすると言われました。

"そのような手術の前例はあるのですか?"と聞いたところ、

"あまりない"との返事です。

想像しただけで恐ろしい手術で、しかも前例もない・・・。

私は即その手術を断りました。

そして、自ら退院したのです。

 

それが、永くて厳しい完治への戦いの始まりでした。

 

その3. 治療法を探し求めて

 

事故に遭った私の、特に酷かった症状は、首から背中にかけての痛みと苦痛でした。俯くたびに首の後ろの痛みと、吐き気が襲ってくるのです。まるで後頭部から背中にかけて50cmの鉄板が入っているかの様でした。

 

そして、手術を断って数日が過ぎた頃、保険屋さんの方から連絡があり、鍼灸の治療院に行くように勧められました。

手術しない療法に切り替えたかったので、喜んで承諾しました。

しかし、そこに2週間通っても、良くなる兆しが見えなかったのです。

 

その後、ホット鍼、足圧、マッサージ、柔整等次々と紹介されて通いました。

しかし、どれも私の症状には合わず、?ヶ月経っても少しも良くならず、途方に暮れていたのでした。

 

保険屋さんにも見放されそうになった時に、担当でない保険屋さんから、"カイロプラクティックに行ったら" と助言があったのでした。

今でこそ知らない人が居ないほど知れ渡っているカイロプラクティックですが、当時は殆どの人に知られていませんでした。

私自身、カイロは暖めて治す療法?くらいの知識でした。

 

どういう治療法なのか訳のわからないまま、藁にもすがる思いで茅ヶ崎の治療院に行くことに決めたのでした。

 

カイロプラクターへの道

その4

カイロプラクティックとの出会い

 

保険屋さんに勧められたカイロプラクティック。

 

当時、その名前すら世間に広まっていませんでした。どういう治療法なのかも全く分からず、何が何だかわからないまま、とにかく藁にもすがる思いで行ってみることにしました。

北茅ヶ崎に着き、公衆電話で連絡をし、場所を教えてもらいました。

分かりにくい場所で、迷いながらやっと着いたと記憶しています。

 

(公衆電話、懐かしいですね。駅の側には必ずありました。スマホやグーグルマップなどはなかった時代ですから…)

 

そこは、看板はあるものの小さく目立たない治療院でした。大柄な先生に圧倒されながら診察室に入りました。診断書は届いていて、それでも補足の問診、検査に30分くらいかかったと思います。その後ベッドに寝かされ、首に手をかけられ、数分触られていたと思った瞬間、バリバリバリ!!っと凄い音が耳元で炸裂しました。何が起こったかわからない状態で先生を見上げると、ニコニコしています。

そして、"どうですか"と質問されました。

 

カイロプラクターへの道 その5

 

私には初めての経験で、そのバリバリバリ!!という音に驚愕、そして頭の中は混乱しました。今の音は自分の首から出たのか、こんなことして、何で先生はニコニコしているのか、分からなかったからです。数分経ちやっと整理ができて、首の調子を確認できました。なんと、後頭部から背中に入っていた、あの憎々しい鉄板が段ボールくらいに変わったのです。起き上がり、首を前に屈曲しても、吐き気を感じませんでした。先生の目を見て、ウンウンと頷き、ニコニコ笑ったのを覚えています。

カイロプラクティックとは摩訶不思議、そしてこんな素晴らしいものなんだと思いました。

 

そして、今後の治療計画を相談することになりました。

 

カイロプラクターへの道 その6

 

今後の治療計画は、カイロプラクティックの先生と保険屋さんと3人で話し合いました。

早く完治して、示談になるのを望むのは私だけでないので、先生の言う通りに計画を立てました。

 

週5日、月曜日から金曜日まで、仕事に行く前に朝9時から30分受けることになりました。先生の予想は1か月前後で良くなると思うとのことでした。

 

7月に事故に遭い、すでに4か月が経ち11月に入っていました。

気温も下がり涼しく快適な日が続き、身体の調子もどんどん回復してきたのでした。

背中に入っていた鉄板が段ボールに、12月に入り厚紙にと変わって行き、そして中旬にはほとんど気にならなくなっていきました。

 

先生の予想通り、約一ヶ月後、12月の20日前後に完治し、示談のサインをして事故の件は終了しました。

 

事故の怪我がカイロプラクティックで治った話はここまでですが、ここから、私の第二の人生が始まるのです。

 

その7

 

さて、ここで大事故に遭うまでの私の人生を遡ってみたいと思います。

カイロプラクターの道に進むまで、ちょっと不思議で破天荒な人生でした。

大学を卒業してから、ゲーム業界のセガ・エンタープライゼスの購買課でファミコンの部品調達をしていました。

ちょうどファミコンの初代SG1000の製造真っ只中だったので、毎日終電まで、社内で残業、休日は8時間休日出勤していました。

若かったせいもありますが、どんなに忙しくとも辛いと思わず、楽しかったと記憶しています。

 

そんな充実した生活を送っていたのですが、少しずつ胸の内に疑問が湧いてきたのです。

自分は、組織の一員として働く会社員にはむいてないのではないのではないかと。

上司と衝突することもあり、他の道を模索している内に閃いたのが、飲食業だったのです。

 

自分は、父を早くを亡くし、忙しい母に代わって、

学生時代から料理を作って来ました。

お腹が空いたと訴える弟のために晩ご飯を作り、それを美味しいと喜んで食べる姿を見て、だんだんと料理の楽しさに目覚めて来たのです。

 

ちょうど辻堂あった子どもの頃住んでいた古い家が、建て替え時期を迎えていました。

その家は、海から2キロ位北にあり、駅からも6分、幹線道路に則している好立地のところでした。

 

そこを立て直して、心機一転、飲食店を開いてはどうだろうかと思い付いたのです。

 

さて、いったいどんな店にしようかと、千思万考の日々が始まりました。

 

カイロプラクターの道 その8

 

辻堂にどんな店を開くのか・・・・。

料理は好きでしたが、本格的な料理の学校に通ったことはありません。

色々と考えた末、酒と美味しいつまみをだすお店にしようと思いました。

 

そこは辻堂の海から2キロ位の所にありました。

せめて魚くらい、上手に捌けないとカッコ悪いと考えたのです。

 

丁度、友人のお兄さんが国立で寿司屋を営んでいました。

彼は大学の先輩でもあり、是非、魚のおろし方から、魚料理の基礎を教えて欲しいとお願いに行きました。

しかし、その先輩に、

"自分の所に来たら、遊んでちゃんと覚えないで、ズルズル年月だけが過ぎてしまうだろう、ここは知らない人の店で勉強した方が良い"

と言われたのです。

 

残念でしたが、先輩に紹介された、あざみ野にある姉妹店で修行することになりました。

 

そこに通い出してから、大将や他のスタッフにも、丁寧に教えていただいていました。 

 

1か月が過ぎた頃、突然自分のやりたい方向が変わりました。

パブやスナックではなく、寿司屋になりたいと強く思うようになったのです。

 

翌日、大将にそのことを告げました。

大将は本気なのかと念を押すと、

”そうか!わかった!”

と、ニコニコして快諾してくれました。

 

やったぞ!このままここで楽しく修行できると喜んだのも束の間、この後とんでもない日々が待ち受けていたのです。

 

カイロプラクターへの道 その9

 

それまでは、朝、大将と一緒に川崎北部市場に買い出しに行っていたのですが、ニコニコして弟子入りを許された翌朝、"今日からは出前下げ(出前した器の回収)をやれ"と命令されたのです。

 

土地勘が何もないところで、伝票を見て、寿司桶やうなきの器を下げに行く係になったのです。

その周りは地名が入り組んでいて、今のように地図のアプリもなかったので、大変でした。

雨の日も風の日も、もちろん炎天下でも、カブに乗って、出前、出前下げ、皿洗いと、前日までとまるっきり違う生活が始まったのです。

 

今までの人生になかった早起き、極端な睡眠不足、毎日繰り返される単調な仕事。

 

正直なところ、大将に対して"なんで"という思いもありました。

 

けれどもこの経験が、どれほど必要で貴重だったかということに、後々自分が出店してから気付くのでした。

 

まず、配達に行ってくれるアルバイトの子や、その他お手伝いをしてくれる人達の辛さが分かります。

そして、彼らを思いやる気持ちが持てるようになったのです。

 

暑い日は冷たい飲み物を、寒い日は温かい飲み物を、雨の日は大量のタオルをと、気遣うようになりました。

 

また、年末年始の忙しい時期に、49日間も休みなく働かなければならない時もありました。

しかし、休みが取れると大将に旅行に連れて行ってもらったのです。

 

そんな楽しかった思い出も、その後自分もスタッフと一緒に中国に行ったり、海に行ったりしたことにつながっています。

 

今でも、この大将の厳しくも愛情ある指導に、感謝しています。

 

カイロプラクターへの道 その10

 

しかし、毎日下働きだけを続けていたら、自分の店を開く時期が遅くなってしまうと思い、ズルいことを思い付きました。

 

大将が、毎朝市場から仕入れて来た魚や野菜、その他調味料や備品を、私が車から店へと運ぶ作業を担当していました。

それを良いことに、たくさんある安い魚を数匹、冷蔵庫の下に一時保管(隠して)しておくのです。

 

そして、忙しいお昼の営業が終わり、大将や先輩たちが休憩しに店内から出ていくやいなや、冷蔵庫の下からデッキブラシの枝で魚をかき出すのです。

そう聞くと汚いと感じるかもしれませんが、毎日私がそこも綺麗に掃除してありました。(下心があったので念入りに)

 

その数匹しかない練習材料を、見よう見まねで真剣に捌いていたのです。

 

大将に咎められることはなかったのですが、後に、実はしっかりバレていたのが分かりました。

 

ほんの少しの魚だったので、大目に見ていてくれたそうです。

 

そして、その成果は後に、中野新橋の菊寿司にトレードになった時に発揮されました。

 

カイロプラクターへの道 その11

 

中野新橋の菊寿司にトレードになったと聞いた時、運命的なものを感じました。

 

実は、寿司屋を営む程魚好きな私ですが、辻堂から東京に引っ越してきてから、すっかり魚嫌いになっていたのです。

そんな私を、大学の先輩が、ある日連れて行ってくれた寿司屋が、その菊寿司でした。

そこで食べた寿司の美味しさに驚き、すっかり魚好きになった私が、数年後、その店に修行に行く事になろうとは。

 

ラッキーなことに、丁稚は私1人で大将と2人で店をやっていきました。

 

最初は、たった3ヶ月しか修行していないので、大したことは何もできないと思われていました。

が、前の店でズルして練習したことが役に立ち、ほとんどの魚を担当させてくれたのです。

 

そこで一年半お世話になり、その間に結婚もしてしまいました。

 

そして、その頃、事故に遭って大怪我をしてしまったのです。(カイロプラクターへの道 その1)

 

カイロプラクティックの先生のおかげで回復した私は、その後大磯の店でも修行を積み、いよいよ、念願かなって辻堂に自分の店を開くことができました。

 

新しい自分の店で、夢中になって働く内に、幸いにもたくさんのお客さんに来ていただき、店も繁盛し、ふと気づくと、十年近い年月が経っていました。

 

カイロプラクターへの道 その12   最終回

 

廃業と転機

 

辻堂に開いた寿司屋が、息つく暇もないくらい繁盛している間も、休みの日には、自分の怪我を治してくれた先生の診療所に通い続けていました。

その先生の治療のやり方をずっと見て学び、その内に家族、友人の肩凝りなどは治せるくらいになっていました。

 

寿司屋を開店してから8、9年経った頃、回転寿司が流行り始め、周りの寿司屋がどんどん潰れていったのです。

そして、本物の明石の蛸よりも輸入の柔らかい歯応えのない蛸を美味しいという若い人達を見て、寿司屋としての未来に希望が持てなくなっていました。

 

そして、ずっと興味があったカイロプラクターへの転機の時期が来たと思いました。

 

まず短期で卒業できるカイロプラクティックの学校を卒業しました。

そして同期3人と一緒に、開業している治療院を4店見学させてもらいました。どこも自分の考えていたのとかけ離れて素晴らしく、今の自分には無理だと一旦諦めました。

 

しかしその後、その先輩方が卒業した学校を紹介してもらい、一念発起し勉強し直そうと決意しました。

 

とは言え、妻と三人の息子を養わなければなりません。そこで会社勤めをしながら、日本カイロプラクティックドクター専門学校に通い、卒業したのです。

 

その後、新横浜に開業するまでに、さほど時間はかかりませんでした。

何故なら、寿司屋をやりながらも、自分の怪我を治してくれた先生の元でずっと勉強させてもらっていたからです。

この先生は、二重の意味で私の恩人となりました。

 

さて、私が何故カイロプラクターになったかを皆様に知っていただくため、簡単に説明しようと書き始めたのが、思いがけず長い物語となってしまいました。

これまで読んで下さってありがとうございます。

 

これまで紆余曲折してきましたが、どれも無駄な経験はなかったなと改めて思いました。

そして、自分が助けられたこのカイロプラクティックで、多くの人々を助けていきたいと心に誓ったあの頃を思い出し、気持ちを新たに頑張ります。

 

これからもよろしくお願いいたします!

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